「福岡大空襲の日、憲法を考える」

6月19日は75回目の「福岡大空襲の日」でした。19日の深夜から翌日未明にかけて、221機のアメリカ軍B29から投下された焼夷弾により、福岡市の中心部は甚大な被害をうけ、福岡市史は死者902人、行方不明244人、焼失戸数は12,693戸にも及んだと記しています。この日は、例年、市と市社会福祉協議会合同による「戦没者戦災者引揚者追悼式」が市民会館で開催され、私たち議員も遺族の皆さんと式に参加していましたが、今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、市役所で市議会議長、市長、遺族会会長等に限定しての献花式が執り行われ、13時の式に合わせ黙想をしました。市保健福祉局によれば、わが国が始めたアジア・太平洋戦争の本市関係の犠牲者(戦没者、戦災死没者、引揚死没者)は12,131人。私の2人の叔父も含まれています。戦争の惨禍を繰り返さないと平和を祈りました。そのためにも、戦争体験をいかに後世に引き継ぐかが大切です。

福岡市博物館では、毎年、6月19日にあわせ、企画展示「戦争とわたしたちのくらし」が開催されています。29回目となる今年は「衣食住とお金にまつわる戦時下の生活」が紹介されています。戦争開戦前から、米や砂糖などが配給制となり、戦争を継続するため、食料も軍事関係に優先的に配分され、衣食住の不足は戦争の長期化とともに深刻さが増してきたことがわかります。

爆撃の中心地となった博多区綱場町には、当日、市民団体「ハカタ・リバイバル・プラン」による歴史案内板が電柱に取り付けられました。

様々な資料を基に戦争の実相に迫った「日本軍兵士 ~アジア・太平洋戦争の現実~」(吉田裕著)によれば、日本人戦没者数は、軍人・軍属が約230万人、外地での一般邦人約30万人、空襲等による戦災死没者約50万人の合計約310万人。この数字の中には、当時日本の統治下にあった朝鮮・台湾出身の軍人5万人が含まれています。また、中国や東アジアの国々で日本により命を奪われた人々が総計1900万人以上にのぼることを忘れてはなりません。

6月23日は、沖縄慰霊の日、そして8月6日は「広島原爆の日」、9日「長崎原爆の日」。毎年、夏になると、なぜ日本は戦争を始めたのか、国民はどう思っていたのか、止められなかったのか、議員は議会でどう行動したのか等々、考えざるえません。異議を唱える人々を封殺し、戦争の道へ駆り立てないよう、「戦争やむなし」の世相をつくらないためにも、憲法前文「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し、主権が国民にあることを存することを宣言し」を大事にし、次の世代に引き継がなければなりません。